All things must pass

感情の備忘録

思い出したかのように回顧すること

私事ですが、5月に入り26歳になりました。

おめでとうございました。ありがとうございます。

誕生日を迎えようが、基本的なことは本当に何も変わらないですよね。

どうなんですかね、生きることって難しいなって幾度となく思っているところではありますが。

 

さて、最近はあまり虚しさと感じる場面が少なくなりました。

否応がなく起こることって拒絶していても仕方のないことですから…。

とはいえ、仕事に忙殺されているうちに忘れてはいけないことを忘れてしまったりもします。

 

今所属している会社に11月に入ってきた同郷で同い年の人間がいるんですけど、

その人今月中旬で辞めるんですって。業種も変えるとか。

別に大したことではなく、大きな絡みがあったわけでもないですが、ちょっと悲しいですよね。最初に聞いたときは結構ショックだった気がします。

まあ、それは同郷ということもあるし、頑張ってるなって思ってたし。

辞めるトリガーが発動されるまであったかもしれない“未来”が、潰えてしまったことの虚しさは、なんというかどうしようもないですね。対策もクソもなかった気がするし(笑)

 

生きていく上で、避けたいことは避けていいと思う、それが理解できる人間ですから

いくらそれが“逃げ”だと言われようが、それは当人が判断したことが正解だと思う。

 

うん。で、、、同郷だから、頑張っている姿を横目で見ていたから、

優秀だったから、

惜しいですよね〜、惜しいなって思いました。

好きとか嫌いとか、そんな単一的なものではなくて、総合的に大成する側の人間だって思っていたから、

その姿を間近で見ることができないんだと知って、それが非常に残念です。

 

と、まあそれが忙殺されているうちに忘れていた気持ちでした。

 

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どうも、気が気でないことのほうが多かった今日この頃でしたが、

一元的にどうだというわけではないし、複雑な心境・心理ですが、

とはいえ良い事も嫌なことも併せ持って今を楽しんでいる気がします。

 

変わりつつ、あるのかな。

ちゃんと前を向けるように、自分をコントロールできているかなあ、

今が不満でもそれを改善する余地を残して人と話せているかなあ。

 

紆余曲折とはまさにこのこと、誰しも抱えるし、

そしてそれは他人を動かすくらいの大きな問題じゃないから、対処ができない。

幾度となく経験するんでしょう。とてもとても抱えていられない。

 

なにか一つの「軸」を持って生きている人の何という素晴らしさ。

僕はそういう人に憧れ続けるんでしょうけど、でもきっとそういうふうにはなれないんでしょうね。

 

まあともかく、自分を是正するタイミングを見計らいつつ、

前を向いて歩いていきますよ。

 

去るもの追わず、来る者拒まず

ずっと元気でいてくれればそれでいいと思いました。

 

 

 

“この世界には、未来がキラキラと見える人もいるというの”

夢であろうとなかろうと

今までの人生を大局的に振り返ると、

虚勢でもなんでもなく大事にしたくて、大切にしていたものもある程度あったなと思う。

その実、どこか排他的で世界を斜に構えて見ていたような、孤独というか、そんな生き方をしていたように思える。

 

それが良いと思える時もあった。

誰かに惑わされない生き方は楽だし、自分が特別になりたいときだけ気持ちを育てて、動けるような。

都合の良い生き方だ。

 

だが、2年前くらいからそれが嫌になってしまった。

特別なキッカケがあったわけではない。ただ、何かを、全てのことをこだわって生きたいと思うようになっていた。

誰か、でもいいし、何かでもいい。

酸いも甘いも含めた全ての気持ちを持っていたいと思った。

 

こだわる生き方は実に面白い。辛いことも楽しいことも、それがすべて幸せだと言える。

 

古典部シリーズ「氷菓」の一節に、福部里志伊原摩耶花に対する自分の気持ちを「こだわってもいいのかな」と悩むシーンがある。

「こだわる」=「執着する」という意味で、臭い言い方をすると「摩耶花を中心に世界が回る」ようになることが、果たしてそれで良いのかと悩んでいるシーンだ。

里志は自分の生き方を「こだわらない」人間だと評していた。自分はあくまでも傍観者であり、真の意味で主人公にはならないと。

その”諦め”は、こだわってはいけないと思ってしまったことに起因する。

こだわってしまったことへの後悔と絶望。

過去にことをなし得なかった、その自分の能力のなさや、立ち回りの不器用さ、

そんな思いを二度としたくないと、諦観していた福部里志は、こだわらない生き方を選んだ。

 

今になっては里志の気持ちも分かる。理解できてしまうなって思う。

こだわらない生き方をしていた自分とは、そうなる課程こそ違えど、苦い経験をしたときにやはり逃げたくなってしまうことが理解できてしまう。

そして、こだわってもいいのかと悩むことも理解できる。

 

今の僕は、2年前から続く「なにかにこだわりたい」と思っている自分だ。

もう、こだわらない生き方が出来ない。誰と関わっていても、常に向き合えるような心遣いをすることに慣れてしまっている。傍観者でいることが基本的に出来なくなっている。

 

そんな今の自分は、

自分を都合よく解釈して、都合のいいように生きれるほど器用ではないから。

募らせてしまった思いのそれは、能動的であろうとなかろうと、器用に立ち回れなくなっている。

ときには逃げてしまう。

 

つくづくちょっと…嫌だなあと思いながら、でもその副産物は少なからず自分の糧になると信じて。

投げやりではなく、事が進行してしまい破綻したことに関しては出来る限り回復できるように行動すること自体は否定しないように…

そういう生き方をしている。

 

そんな生き方がもたらしてくれるものが、大きな成長に繋がることを信じている。

ただの願望かもしれない。とはいえ、夢であろうとなかろうと、それが大きな縁をもたらしてくれると信じて。

 

過去にこだわって生きることは、こと半分以上は意味のないものであることくらいは自覚して、

今の、そして未来の繋がりや熱中をないがしろにすることは避けたい。

 

どうか、そんな生き方に幸あれと願う。

今を丁寧に撫でて、背中をさすってあげられますように。

 

逡巡する

 

先日、電車の中でふとフジファブリックの新曲を聴いた。

テレビ東京系列のドラマ「つまり好きって言いたいんだけど、」の主題歌

”君を見つけてしまったから”

 

眩しすぎる歌だなって思った。

一方的で愚直なそういう感情は、誰しも体験することだろうけど、こと自分に置き換えると不器用さが目立って死にたくなる。

 

この歌を聴いて抑圧していたことをふと思い出した。

結論から言うと、今はだいぶ落ち着いている。

 

状況が”気楽”でいられることを許さなかったとはいえ何かと重かった。

バランスを崩すと一方の重荷になるから、至極人間の感情って難しい。

 

恋は盲目とは本当に至言だよなってとても思う。

 

友達でいたい、恋人になりたいわけじゃない、と考えていても、

感情はそうじゃないという自己撞着を起こしていたんだなと今は自覚している。

何かと理由を付けたくなる、そんな感情や行動を持て余していた。

でも理性で制御できるほど簡単な感情じゃなかったから、思いのまま進むしかなくて、修復不可能になるほどの軋轢を生んだ。

仕方ないと思っていたし、こうなることは大体予測していた。

 

”もしこれが恋だとしたら、苦難すぎる過程で破滅を生む”

そう序盤は思っていたな。見事にそうなった。

9月末にその感情を捨てて、ないものとした。

バランスを保とうと必死だった。

 

そうすべきだったかは分からないけど、細かなことで心身の健康を害していたから。

離れて一旦整理しないと壊れるから。

そうやって今はだいぶ落ち着いて、次に進めるほどの元気を取り戻した。

 

不可思議な感情に惑わされた。本当にこうなりたくはなかった。

恋愛感情が悪と言うつもりはない。自分くらいは自分のことを肯定してあげたい。

 

bunny-tachibana.hatenablog.com

 

この記事で言った忘れられないは友達として付き合っていけたらな、の裏返しだ。

絶望感に疲弊していた以前とは違う、新たな希望を抱いていた末の気持ちである。

単に、こんなくだらないことで人として魅力を感じていた人と決別することが愚かしいと感じているだけだ。

「いつか」

物事の終わりというのは不自然で、一般的には無理やり区切るものだと思う。

だからこそネジレが生じる。不自然だと思いながらそれを眺める。

眺め続けて、いつしか忘れていく。一般的には。

 

妙に清々しい気分で過ごしていた時期を通じて感じた。

ロジックで説明がつくことほど良いことはない。

実際は何事も証明のできない感情に左右されるから、どう足掻いたとて覆せない事実に縋ることだってある。

だからこそ、終わりは無理やり区切るものだなと…前述したとおり。

 

ここでいて過去の自分を覆すようで申し訳ないんだけど、

今はやっぱ「忘れらんねえよな」という気持ちでいる。

ウジウジするの嫌だからって無理やり区切って忘れたふりしていることも、「一時的に感じていたことだから」と自分を納得させていたことも、年月の深さがそれを簡単にひっくり返す。

簡単な間柄じゃないでしょ? ってそう思ってしまう。その真実は置いといて。

 

どうだろう。どうなんでしょうね…。

多分ね、その答えはそうだろうね、としか言えないんだけど

一切隙のない壁に相対するほどの力があったとは思えない。

だってずっと落ち込んでいたんだから。

ごめんね、としか言えないなって思っていたんだから。

 

物事を一義的に捉えていたから気づけなかったことが多すぎる。

本当はいろいろな選択肢や世界があって、それを俯瞰的に見ていいとこどりできたかもしれない。

体よく言えば「大切にできたかもしれない」。

それができるほどの技量があれば良かったなと素直に思うし、それが出来ている今が逆に憎くすらある。

 

焦っていたんだと思う。今思えばそれは最悪な選択肢だったんだけど。

二度と目を背けないと思っていたことも、後々で感情任せに覆した。

だから、つくづく最低な人間だったと自分をそう評する。

 

だからこそ、ごめんねとしか言えないって思っていた…前述したとおり。

ヤマアラシのジレンマだと、それは事実で覆しようもなかったから、

傷つきたくないし傷つけたくない。現状のバランスを保つほかないんだろうと。

 

自分が過ごすこの世界は、思い出すファクターばかり。

辛くてしょうがない時もまだあったりする。

いつかちゃんとバランスを保てるようになるまで、急激な浮き沈みが起きないようになるまで、どれほどの時間がかかるだろう!!ってまだ思っている。

 

この気持ちが綺麗だなんて微塵も思っていないし、こと半分はエゴでしかない。

だから未来を望むということを口にすることが憚れる。

でもやっぱり、そう思えること自体を大切にしたい。

不自然な終わりを望んでいない。

 

今は無理だなって、バランスを保てないって思うから、抽象的にしか望めない。

今言えることは、

いつか、ね。

 

一生抱えて生きていくと思っていたことを

寒いねえ。

考え込むことをやめる、ということを最近意識していますが、

楽ですね。楽な生き方だなあ。

 

先月、先々月、行き場所のない気持ちを抱えていたという話はしましたが、

最近その事、何を考えていたのか忘れてきています。

何を考えていたっけ。

 

今がわりと適当に、そして順当に、現実に順応できている感覚があって

思い込んで期待して勝手に落胆するというクソみたいな流れは最近無いように思います・・・。

 

そして、先月、先々月、僕は何を考えていたのか…

それこそ前々のPostで書きましたが、本当の意味で備忘録になってきていますね。

どういうことかというと、

日々少しずつ、当時何を考えていたのか、その気持ちを忘れてきているということです。

もしかしたら、想いも消えてきているかも知れない。

 

当時は多分「一生抱えて生きていくんだ」と思っていたことだったと思う。

こいつとは一生何かしらの関係で繋がっていられるのかもしれない、とそう考えていた気もするんだけど。

 

改めてふと思い出した時に、友達のままでいられたら良かったな〜と思うのは、

自分自身に対しても周りの人たちに対しても不義理だと思っちゃう。

全てが流動的な関係性の中で、今大事だな〜と思う人もいるんだし…。

 

最近、ここ1ヶ月ずっと心が穏やかでした。

多忙だな〜っていうときも、変に穏やかだったから

重〜い心に慣れていた僕は実に幸せな日々でした。

ずっとこれでいい。ずっとこれでいいかな・・・。

 

一生抱えるんだろうなと思っていた気持ちや想いは、

箱にしまって忘れた時に、ふと開けて

そんな事もあったなと思い出すんだろうな、と前に書いたとおりになる気がします。

 

取り損ねた思いなんていっぱいあるな。いっぱいあるが、

それでも良いやって思って前をちゃんと向けていると思う。

 

寒さが心地よくなって、不相当な気持ちをどんどん捨てていっている。

大人になるってこういうことなんでしょうかね。

不安定要素を含むことばかりだとして

千葉を震源とした関東全域の地震がありましたね。

僕が住んでいるところは最大震度を計測したらしいですが、笑っちまうくらい特に影響はなかった。

浄水器が倒れたくらい?

 

おかげて眠れないです。

今日5:30起きなんですけど。

 

前のpostで、最近の僕に起きた事をつらつらと書きましたが、晒すつもりもなかったことですが、

ある意味「諦め」の意思表示として、高らかに宣言したわけです。

自分は意志が弱い事を自覚しているので、目を逸らさないように見ておいてくれ、という意図もありつつ。

 

ただ、まあ

不安定要素を含むことばかり考えてしまいます。

過去に対する未練ではないです。

前に進むための行動や考えだとしても「もしかしたら…」は付きまといますね。

残念な事です。

 

分からないこと、理解できないことを

あれこれ考えたところで答えは出ないことは自明だから、もっと違うこと考えれば良いのに。

そう思ったりするんですけど、

リスクヘッジというか、もし〜なら、を予め考えがちなこの頭は全く変わらない。

 

でも、まあ大体が無駄なことですけどね。

根拠がないからね。

分かったつもりになること以上に、肯定も否定もできないただの妄想に何かしらの疑念を持つのは大概にしたほうがいい(笑)

 

そう思いながら、今日を生きています。

事実が俯瞰で分かるような神様視点、誰か持ってない?

あるなら、ください。

 

走り出したら、止まらない

日々の備忘録のために言葉を連ねていたこのブログも

もはやブログと言えるのだろうか、というレベルで更新していなかった。

いやはや、悪い。

 

社会人3年目、25歳、独身。

とある都内の番組制作会社務め、キー局の番組担当。

いわゆるテレビマン、それが今の僕です。

 

今の仕事に大きな不満は特にない。

時々殺してやろうかというレベルで多忙すぎることを除いて、

仕事にまつわる大きな不満のエトセトラは特に無いとしか言いようがない。

 

今の僕はそう、大きな不満を持たない、しがない男でしかない。

今現在、何者かになろうと、努力を重ねているわけでもないし、

日々の仕事で得られるスキルだけをつまみ食いしては吐き出しているに過ぎない。

 

そんな日々も悪くない。平坦でも確実に歩いている。

少し前まで、そう感じていた。

 

そういう日々だ。何か大きなことが起きるはずないとそう思っていた。

 

恋愛だってそうだ。

適当に出会って、適当に付き合って、運命とか感じないで適当に結婚して、

適当に子供出来て、適当に老後を過ごして、適当に死んでいく。

多分、そういうふうに大きな波も谷も無い中、適当さを謳歌しながら、

言うならば「つまらんけど普通だよね」っていう人生なんだろうなあと軽く思っていた。

 

諦めから生じたものではない。そういうものだと割り切っていたのかもしれない。

 

でも、そういう意味での「普通」にはなれない、

僕の人生は色んな意味でドラマチックに遷移するしかないんだと、

最近はそう悟っている。

 

今年の話をしよう。細かい話は除いて、大枠だけ説明する。

三者に「青春してるね」と言われることが多い。

自覚している、25にもなって未だに青春している。

 

1月。

変化はない。ゆうに自由自在な日々。

あるとしたら家族のとある病気の罹患。

すぐに治って、良かったねとそう安堵した。

早く孫を見せてね、そう急かされた。

そうだよね、って行動をしだした。

 

 

2月。

忙しかった。あんまり覚えていない。なんだろうな。

表面下で進めていた行動を、更に進めたくらい。

 

 

3月〜6月。

辛くても日々を頑張って生きている人に出会った。

その人と過ごしてきた日々は非常に短い、実に人生の0.1%にも満たないくらい。

特に大きなインパクトは無いけれど、こういう人もいるんだなとそう思った。

コロナで受けた影響は数知れず、大丈夫だよ、問題ないよと言う、

その本心を悟ることも、知ることも出来なかった。

今となってはどうでもいいことではある。

お互い頑張って生きようね、とそう思う。

 

 

7月。

変化がない。変化がほしいと、そう思っていたような気がする。

今のままでは生きている意味がない。

成長もないと、そう感じていたような気がする。

過去の精算をしよう。

避けていたことを掌返しした。

 

 

8月。

波乱。感情を露出することを避けていた僕は、それが露呈することを恐れていた。

でもなにかのキッカケで、ふと溢れ出したものは止まる様相を示さない。

走り出したら、止まらない。

理性で抑えられない。

多分きっと、昔から想っていたんだろう。

それが表面化することを、恐れていたんだなということを自覚した。

キッカケを掴めず勝算もないなか、その思いが露呈した時に

何も出来ず、言葉もかけられず、応援することしか出来ない。

 

後悔だけが募ることを承知の上で、諦めにも似た心の動きがあった。

 

当事者にならなければよかった。そう思うことさえあった。

やっぱり会わなければよかったな。そう後悔したこともあった。

でも7月の僕は「精算しなければ」と思っていた。

自家撞着を繰り返しながら、溢れる感情は、

救いたいだとか、救ってほしいだとか、

理解ってほしいだとか、理解りたいだとか。

 

自分勝手な思いを繰り広げながら、相反する現実から目を逸らせないでいた。

向き合おう、たとえ向き合ってくれなくても。

逃げるな自分から。職場の先輩から言われたその言葉がやけに響いていた。

逃げたくない。そう思っていた。

 

 

9月。

言わなければ伝わらないことは多々様々にあることを悟った。

普通の人なら、こういう心の動きがある中で、

我慢できなくて吐露してしまうんだろうな。

でも、我慢した。迷惑をかけたくなかった。

 

自分の中で溢れていた感情は、分かってほしいの表れだったかも知れない。

自分勝手で、100%の非があることを自覚していた僕は、

その感情を一方的に吐露することは、もはや罪であると思っていた。

 

やめよう。

そう思った。…やめたくない…。いや、やめよう!

2,3回同じことを繰り返した。

無為ながら無駄だ。

思い続けながら、傷ついていく感情に気づいていた。

 

9月24日、朝。やけに清々しかった。

いつの間にか、消えていたその感情は、諦めだったのだろうか。

成長の証だったのだろうか。

生まれ変わった気分だった。

 

同僚に連絡をした。やめたよ、ありがとう。って。

 

縁が切れないのであれば、また会えるよ。

そういう理想論だけ残したまま。

 

絶った。

 

 

10月。

今の自分。

無為なるものに生まれ変わった自分を自覚している。

報いやゴールのない感情を抱えたまま向き合うことが出来ている自分を自覚している。

7月のとき誓った、過去の精算は今でも続いている。

8月9月から直線上にあることを、そのまま続けているイメージだ。

 

時々「ダメ」を突きつけられながら、答え合わせをしている。

今更だって分かっていることも、

今更じゃないかもしれないっていう希望だけを抱いて。

 

そういう日々。

ドラマチックは続いていく。