All things must pass

感情の備忘録

夢であろうとなかろうと

今までの人生を大局的に振り返ると、

虚勢でもなんでもなく大事にしたくて、大切にしていたものもある程度あったなと思う。

その実、どこか排他的で世界を斜に構えて見ていたような、孤独というか、そんな生き方をしていたように思える。

 

それが良いと思える時もあった。

誰かに惑わされない生き方は楽だし、自分が特別になりたいときだけ気持ちを育てて、動けるような。

都合の良い生き方だ。

 

だが、2年前くらいからそれが嫌になってしまった。

特別なキッカケがあったわけではない。ただ、何かを、全てのことをこだわって生きたいと思うようになっていた。

誰か、でもいいし、何かでもいい。

酸いも甘いも含めた全ての気持ちを持っていたいと思った。

 

こだわる生き方は実に面白い。辛いことも楽しいことも、それがすべて幸せだと言える。

 

古典部シリーズ「氷菓」の一節に、福部里志伊原摩耶花に対する自分の気持ちを「こだわってもいいのかな」と悩むシーンがある。

「こだわる」=「執着する」という意味で、臭い言い方をすると「摩耶花を中心に世界が回る」ようになることが、果たしてそれで良いのかと悩んでいるシーンだ。

里志は自分の生き方を「こだわらない」人間だと評していた。自分はあくまでも傍観者であり、真の意味で主人公にはならないと。

その”諦め”は、こだわってはいけないと思ってしまったことに起因する。

こだわってしまったことへの後悔と絶望。

過去にことをなし得なかった、その自分の能力のなさや、立ち回りの不器用さ、

そんな思いを二度としたくないと、諦観していた福部里志は、こだわらない生き方を選んだ。

 

今になっては里志の気持ちも分かる。理解できてしまうなって思う。

こだわらない生き方をしていた自分とは、そうなる課程こそ違えど、苦い経験をしたときにやはり逃げたくなってしまうことが理解できてしまう。

そして、こだわってもいいのかと悩むことも理解できる。

 

今の僕は、2年前から続く「なにかにこだわりたい」と思っている自分だ。

もう、こだわらない生き方が出来ない。誰と関わっていても、常に向き合えるような心遣いをすることに慣れてしまっている。傍観者でいることが基本的に出来なくなっている。

 

そんな今の自分は、

自分を都合よく解釈して、都合のいいように生きれるほど器用ではないから。

募らせてしまった思いのそれは、能動的であろうとなかろうと、器用に立ち回れなくなっている。

ときには逃げてしまう。

 

つくづくちょっと…嫌だなあと思いながら、でもその副産物は少なからず自分の糧になると信じて。

投げやりではなく、事が進行してしまい破綻したことに関しては出来る限り回復できるように行動すること自体は否定しないように…

そういう生き方をしている。

 

そんな生き方がもたらしてくれるものが、大きな成長に繋がることを信じている。

ただの願望かもしれない。とはいえ、夢であろうとなかろうと、それが大きな縁をもたらしてくれると信じて。

 

過去にこだわって生きることは、こと半分以上は意味のないものであることくらいは自覚して、

今の、そして未来の繋がりや熱中をないがしろにすることは避けたい。

 

どうか、そんな生き方に幸あれと願う。

今を丁寧に撫でて、背中をさすってあげられますように。